かつて文豪が理想郷をつくろうとした村が、九州の山奥にある。
金や暴力にまみれた世間から離れ、「自他共生」の世界を追い求めようとした"村人"は、いまや実質的に一人を残すのみだ。
その人物はどんな生活を送り、現代社会をどう見ているのか──。長年気になっていたその村を訪ねるため、宮崎の山の中へと向かった。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●「ついて来る?」山中の水源まで同行することに
「安定した仕事には絶対につかない。おもしろくなきゃダメ。自分のやりたいことをできる自由が大事なの」
宮崎県木城町(きじょうちょう)にある「新しき村」の住人、松田省吾さん(82)は、田んぼに水を引く溝を整えながら話す。
山に囲まれた広大な土地には田畑が広がり、自ら建てた家や小屋が並ぶ。近くでは放牧された豚が泥まみれになって動き回っていた。
「今日はちょっと水源を見に行こうと思ってるけど、ついて来る?」
田んぼや生活に必要な自家用水を山から引いており、40年前につくった取水ダムの様子を定期的に確認しているという。松田さんはスコップを片手に、標識もない山道へと入っていった。
自家用水を引いている取水ダムの様子を確認しに行くため、山中の道なき道を進んでいく松田省吾さん(2025年5月2日、宮崎県木城町で、弁護士ドットコムニュース撮影)
●「ここまで記者が来たのは初めて」泥だらけに
慌てて後を追うが、前日までの雨で斜面はぬかるみ、足を滑らせば谷底に転げ落ちかねない。ロープや木の根を頼りに慎重に進み、約30分後、ようやく取水ダムに到着。写真を撮る余裕もなく、靴も手も泥だらけになった。
「ここまで記者が来たのは初めてだよ」
松田さんは笑いながら、山水が溜まる場所に備え付けられた管の周囲に溜まった泥や葉っぱを取り除き始めた。台風や大雨で土砂が流れ込み、水が止まることもある。一方で、雨が降らない日が続き過ぎると、生活水が枯れる。
「ここは多くの人が住める場所じゃない。本当に好きじゃないとできない。でも自分で望んでやっていることが大事なんだよね。僕にとっては普通の生活だから、寂しさはまったくない」
生活などに使う水を引いている山中の手作りダムを掃除する松田省吾さん(2025年5月2日、宮崎県木城町で、弁護士ドットコムニュース撮影)
●武者小路実篤が1918年に開村、最盛期は50人の住民
「新しき村」は、明治から昭和にかけて活躍した作家、武者小路実篤(1885〜1976年)が1918年に開いた「人道主義共同体」だ。掲げた「精神」は次のようなものだった。
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させる事を理想とする。 一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。 一、その為に自己を正しく生かすようにする。自分の快楽、幸福、自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない。 一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとる事で全世界の人間が同じく義務を果たせ、自由を楽しみ正しく生きられ天命(個性もふくむ)を全うする道を歩くように心がける。 一、かくの如き生活をしようとするもの、かくの如き生活の可能を信じ全世界の人が實行する事を祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である、我等の兄弟姉妹である。 一、されば我等は国と国との争い、階級と階級との争いをせずに、正しき生活にすべての人が入る事で、入ろうとする事で、それ等の人が本当に協力する事で、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
実篤は「自分も生き、他人も生きる世界をつくりたいというだけの話である。もっとつめて云えば、『自他共生である』」と記している。つまり、誰もが幸福に生きられる共同体を目指したということだ。
そして、自他共生に必要なものとして、「肉体的な生命を保つこと」と「健全な食、衣、住」を挙げ、そのために村の住人が協力して働くことを求めた。
新しき村は、ダム建設の影響で1939年に本拠地を埼玉県毛呂山町(もろやままち)に移し、宮崎のほうは「日向新しき村」として残った。
新しき村を開設した作家の武者小路実篤(日向新しき村の記念館にあった肖像写真を撮影)
●移住して半世紀、残る村人は実質一人のみ
北海道函館市に生まれた松田さんは、両親が他界し、17歳で上京。働きながら定時制高校で学んだ。その後、社会科の教員資格を取得するなどしたが、自分が知らない農山漁村での暮らしに憧れる気持ちがあったという。
そんな中、本屋で偶然手にした実篤の著書に感銘を受け、25歳で埼玉の新しき村を訪ねた。33歳で宮崎の村に移住し、以来、自給自足に近い暮らしを続けている。
始めてから50年が経つという有機農業について、松田さんは「自然の摂理を尊び、学び、実践するという勇気がいる」と話す。
ともに暮らした妻はすでに亡くなり、現在、実篤の理念に基づいて生活するのは実質的に、松田さんひとりだという。埼玉の村も残る村民は数人で、高齢化が進み、存続が危うい状況になっている。
閉鎖的な宗教団体のようなイメージがあるかもしれないが、厳格な戒律はなく、生活上の決まりもない。外部の住民を熱心に勧誘することもない。
松田さんはスーパーに買い物に行くこともあれば、ガソリンスタンドで燃料を買うこともある。スマホでLINEも使う。近隣の住民との交流もあり、頼まれごとがあれば駆けつける。
現在の日向新しき村の風景。中央奥に見えるのは「武者小路実篤記念館」で、実篤にまつわる書や絵画などが展示されている(2025年5月2日、宮崎県木城町で、弁護士ドットコムニュース撮影)
●「人間は金でつくられるわけじゃない」
なぜこの地に惹かれたのか。松田さんは、遠くの山を見つめながら、ゆっくり語った。
「普段の養生が大事、人間は。米づくりや野菜づくりを自分で体験して、本来の自然の力をいただく。そういう最小限の環境で、自分でできることを自力でやっていくという生き方が僕にとっては最高なの。
会社勤めしてたらさ、勤務時間や決まりとかがあるじゃない。ただお金があって不自由しないっていうだけで、自然の恵みをいただくという喜びが乏しい。金があるからといって、人間がつくられるわけじゃないからね」
松田さんは「養生(ようじょう)」という言葉を何度も口にした。自身の健康を保つ、という意味だが、82歳になった今もその言葉通りの生き方をしている。
まだ多くの住人がいた1971年9月に新しき村で撮影された写真。中央手前に座っているのが若かりし頃の松田省吾さんだという(日向新しき村の記念館にあった写真を撮影)
●「死ぬまで楽しみ尽くしたい」
日向新しき村の住人は、松田さんが最後になるかもしれない。だが、悲観する様子はない。敷地内の墓には、すでに自分の名前を刻んでいるという。
「新しき村は周りからは非常識に見えるかもしれない。でも、時代の常識に迎合するのではなく、自分がやりたいことはへそ曲げてでもやることだと思います。働くことも食べることも楽しまないといけない。僕は自分が死ぬまで楽しみ尽くしたいと思ってるの」
実篤は1920年10月、こう書き残している。
<新しき村の精神が本当にわかるには今の社会の生活がまちがっていることを本当に知らなければならない。それは物質上の苦しみからばかり来るのではない。精神上の苦しみから来なければ嘘である>
開村から107年。理想は形を変えながらも、たしかに受け継がれていた。
「金があるからといって人間がつくられるわけじゃない」と話す松田省吾さん(2025年5月2日、宮崎県木城町で、弁護士ドットコムニュース撮影)
取材を終えようとした記者が足元にかゆみを感じてかくと、指が血に染まっていた。得体の知れない物体に驚く記者を見て、松田さんが笑った。
「ヒルだね。今はまだ少ない時期だから、水源に連れて行ったんだけど、もっと多い時期だったら行かなかったよ。ここまで取材に来てヒルに血を吸われるなんて、いい経験になったんじゃない?」